広田照幸『教育改革のやめ方』岩波書店 2018年

 シロウト教育論と個人的な狭い生徒体験で語られがちな「教育」は複雑さと微妙さに満ちている。「いい教員」の姿も様々だ。また矢継ぎ早に繰り出される耳障りのいい教育改革は検証もなく、予算などの条件整備もないため、「競争と評価」で教員を追い詰めても成果が上がらない。「改革疲れ」と言うべき現場の実態。その中での教育行政のあり方や教員の養成や研修に著者は柔軟で本質的な提案をする。

 

 教育とは、「誰かが意図的に、他者の学習を組織化しようとすること」 しかし、実際は教わる側にはやり過ごしたり、離脱する自由もあり、不確実な試みである。従って、教育には失敗がつきものである。教育の目的・目標に関する意図はたくさんあり、しかもしばしば矛盾している。その中から何を選んでどうやるのか。知識や見識をもって仕事をしてほしいと結んでいる。

 

 教育は本来クリエイティブな仕事です。そして個人プレイではなく、教職員集団の同僚性と協働性が大切です。現場から学ぶことは必要ですが、現場では学びにくいもの、現場にない視点を大学で学び、自分の力量を伸ばすことに役立ててほしいとある。


 また教育行政は現場の余裕と自由を保障し、教員自身が自分を高めることを応援し、世間からの理不尽な要求から学校を守る仕事がある。教育に携わる人たちを応援してくれるよい本だと思う。

 ミッキー

 

読書案内

パオロ・マッツァリーノ『みんなの道徳解体新書』ちくまプリマ―新書 2016年

パオロ・マッツァリーノ『みんなの道徳解体新書』ちくまプリマ―新書 2016年  2018年度から小学校で道徳が「教科」となる。理由の一つは「いじめ問題」  以下、著書を引用することで問題提起としたい。  道徳は特殊な科目である。体育や英語などと違って、教える先生は道徳が得意でなくてもよい。実技もない。道徳教育に熱心な人が道徳的かと言えば極めて疑わしいことは周知の通り。自分以外の人がマジメならズルをする自分が得をする。そのための牽制である。本当に道徳的な人は実践する。  道徳教育では「なぜ?」という問いを禁じている。道徳教育の効果がないのが分かっていながら、なぜ道徳を教えるかと言えば、責任逃れのためである。    道徳には副読本というものがあるが、その問題点は  ・ 理想の家族しか登場しない。(→様々な家族があって、正しい家族はないと教えるべき。戦前には家に他人がいた。) ( )内は著者の考え。  ・ やたらと目立つ樹木信仰。欅、銀杏、シクラメン、自然… (→現実逃避。擬人化は矛盾を生じる。)  ・ 歴史と数学を無視。相田みつをのご先祖様。(→疑問を持たないで感動。その計算がおかしくないか、と気づくことが大切。)  ・ 自己犠牲の賞賛。「しあわせな王子」「泣いた赤鬼」「ひさの星」「子守りおつな」 (→他人も生かし自分も生きよ、であるべきだ。)   さて、副読本をオトナ目線で読んでみると。執筆者や編集者の狙いまで見える。  著者が選んだ傑作選:①無理をして友だちを作る必要なし。世の中で本当に必要とされるのは友だちを作る能力ではなく、友だちでない人と話せる能力。災害の時は友だちではない人と助け合う。②なまはげ 勝手に人の家に上り込んで大声で脅すのがいけない。③大きいりんごと小さいりんご 気が利かない親。④はしのうえのおおかみ もう一つ橋を架けるのが建設的。⑤礼儀の心 フィンガーボールの水は作り話。都市伝説。国家の敵を田舎者として描き、貶める。⑥地球はだれのもの(教出)シュールだ。 我が道を行くのは教育出版。おすすめの名作(省略)  *偉人伝を子どもに読ませてはいけない。凡人、ダメな人をバカにするから。    人間はつい誤解をしたり、思い込みに支配される。「江戸しぐさ」の嘘は既に指摘された。近年凶悪な少年犯罪が増えているやゴミ捨てなど道徳心が低下しているという批判があるが、むしろ戦後の混乱期に凶悪犯罪が増加した。(少年よりオトナの方が圧倒的に多かった)。また以前は道、駅、生活排水など昔はゴミだらけだった。個人主義批判に対して、日本では個人の箸や茶碗が決まっていたり、柔道などは個人で闘うという事実がある。   経験と常識はすぐにサビつき、「偏見」に変化する。「なぜ人を殺してはいけないのか?」  など、禁止されている理由について何も考えないなら動物並の知性しかないことで、疑問  を持つことは大切。そして、いかに他人を憎まないようにするかを教える。そのためには  多様性を尊重することが肝腎。絆というのは同じ価値観、同じ行動で他人を縛る。 

ミッキー

林竹二+遠藤豊「いま授業を変えなければ子どもは救われない」太郎次郎社 1981年1月

 

 誰のために授業をやっているのだろうか。本来は子どもと学びあうためなのでは?教師の「教えたいこと」を「教え込む」ための授業に何の意味があるのだろうか?と考えさせられた本。

 ちょうど、「落ちこぼれ」ではなく、「落ちこぼし」という言葉が教育界で話題になっていた頃の本。

 古いが名著であると思う。

              shinchann2008

ファラデー著 竹内敬人訳「ロウソクの科学」岩波文庫 青919ー1

 おそらく、父親からの誕生日祝いでもらった本。もらったその時は読まなかったと思う。しかし、理科教員になったときにたまたま、手にして面白くて一気に読み終えた。

 ファラデーが研究所長をつとめたロンドンの王立研究所で毎年行っていた少年少女のためのクリスマス連続講演の速記録を本にまとめたもの。さすがイギリス、クリスマスにこんな科学講演を子どもたちに準備するのか、と思った。

 図版入りで、わくわくするような実験の説明と深い思考を促すようなファラデーの語りかけ。「こんな授業をやってみたい」と思った。

 実際に、ものの燃焼という中1の理科の授業でまめごとをためしたことがある。きっと、教え子のみなさんで覚えている方がいるかもしれない。

         shinchann2008

塚谷裕一ほか「植物の軸と情報」特定領域研究班『植物の生存戦略―「じっとしているという知恵」に学ぶ』朝日選書 821 2007年5月10日

 シノイヌナズナという全世界で遺伝子情報が研究されている植物がある。簡単にいうと、小さい白い花をつける菜の花。このシロイヌナズナの花芽に放射線を当てると、1つの花の中のおしべがまた花びらに変化したり、花の中に花ができたりするという。花の構造ーがく、花びら、おしべ、めしべーはたった3つの遺伝子の組み合わせによってできているという。放射線がこれらの遺伝子を壊すことで、奇形の花をつくり、ABCの3つの遺伝子が発見され、その組み合わせで花の構造がなりたっていることがわかった、という。

 植物って不思議ですね。

                 shinchann20008


『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』管賀江留郎(かんが えるろう)洋泉社 2016年発行


『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』管賀江留郎(洋泉社)2016年発行

 

 

すべての悲劇の原因は人間の「正しい心」だった!

 

 『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』管賀江留郎(洋泉社)2016年発行

たとえば、人が殺されれば犯人を特定し、罰を与えたいと考えるのは人情だろう。犯人が逃げおおせているような状態は耐え難い。また集団内では和を乱す行動はずるい、妬み、やっかみ、自分勝手、誰かが得をしている、公平、平等といった観点から批判の対象となる。

 

 

 人間は『感情』の動物である。そして感情が行動を支配する。しかし情報には歪み(バイアス)がつきものである。正邪・善悪など本来個人的な価値観が、集団の中では多数派の考えに収束しがちなのは、共同体の維持のための人類の本性なのかも知れない。 正義感は処罰感情を伴い、許しがたい思いにとらわれる。厄介なのは、一度持った印象は変えるのが困難だということである。冤罪が晴れても村八分が続いたという例も報告されている。実は戦前戦後にたくさんの「冤罪」が静岡県で発生した。浜松事件、幸浦事件、二俣事件、島田事件、(袴田事件)など。 その多くにK刑事が関わっている。拷問による自白、自作の証拠、秘密の暴露。彼は賞賛を浴び、権威者となった。なぜそんなことになったのか。

 

著者は提案する。冤罪をなくすには、普段は裁く立場の裁判官が冤罪で犯人扱いされる経験をする必要があると。併せて、警察官、検察官、陪審員にも研修が…

冤罪すべての根本原因、大恐慌や戦争、テロや革命に至る人間の歴史を動かす原理が〈道徳感情〉であると著者は言う。ではどうしたらいいのだろうか。

 

ミッキー